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懐古と選択。

 軽はずみで衝動的な行動を取ると、事後に9割の確率で後悔する。残りの1割は、解の選択に成功した、数時間前の自分を客観視して、振り返ることがある。後者は比率的に博打に近いけれど、性格上、衝動的な行為謂わば作興させることに目がない気がする。

 

 ある時期、友人と近所のボーリング場で落ち合う約束をした。あの時期の僕は、思い悩むことがあって、ピンを球で弾くことで、閃きが浮かぶのではと、浅はかで楽観的で、安直な考えを持っていた。1ゲームが終わって、無事に友人に敗して、スコア表をそっと傍らにしまいながら、友人に昼食を取ろうと提案をした。この時点で、思い描いていた事象が未遂に終わっていた。そもそも、閃きなどは窮地で思い悩んだ末に、出るか出ないかのものであって、例え浮かんだとしても、万人的な一般論で使用するに至らないものだと後になって察した。昼食では、映画の話ばかりしていた。

 

 良く郷里を思い出すのは、高校時代の懐かしさが未だに脳裏から離れないからだろう。夏期補習中の帰りに、ミニシアターで『2つ目の窓』を観に行ったりだとか、家電量販店で洗濯機を友人と眺めにいったりだとか、酷く現実逃避な行為を取っていた。その頃をなぞる様に、帰省しては過去に訪れた場所に赴く。1年の半分以上通った本屋は今も尚、変わらない店内と、店員さんの手作りポップが、その店の暖かい雰囲気を形容していて、生家の様な居心地の良さを覚えるから、帰宅後にまた訪れたい気分になっている。

 

 不思議なもので、幼少期にあれだけ退屈な場所だと考えていた郷里は、年を重ねるに連れ、考え方が変遷してきて、晩年になる頃には恐らく故郷に戻っている気がしてならない。映画館があって、本屋があれば、何処にでも住める気がした時期もあったけれど、慣れ親しんだ場所は、何処かで自分を形成する一部となっていて、懐古的になっている現状が今を悟るのに相応しいと思う。只々、今は、郷里のミニシアターでアイスコーヒーを片手に河瀨直美監督の新作が観たい。

 

 

 

 

 

 

言葉とプレーヤー。

 度々、自分の名前を忘れる。自らの名前に執着がなくて、微塵の思入れさえも持ち備えていない故に。幼少期から、多くの場合に一親等ないしは二親等から名付けられるシステムは釈然としなかった憶えがある。そして、その考えは現在も変わっていない。

 

 実生活がそうならば、創作物の命名など、更に関心は薄まる。新たなゲームを始める際に、ゲーム内での分身(プレーヤー)と自己を投影しないから、別に名前は「ねこ」とか「とり」とかで良くて、言葉のリズムが余程可笑しくなかったらどうでもいいと思っている。プレーヤー名を決める画面が表れると潜在的に、脳内の何処かの意識が弛緩し、ゲームをプレイしている自分が、ゲーム内での名前を選名していると俯瞰的に見てしまう。だから、プレーヤー名など初期設定から無く、背景美術等の麗しさに感嘆し、側面から核へとなぞる様にストーリーを展開し、無意識的に世界観へ浸っているゲームを好んでいる気がする。ナラティブ系のゲームも『IN』と『OUT』の変換が重要だと最近になって気付いたのだけれども。

 

 

 年を重ねるに連れて、単純明快の話を好むようになった。だが、言い換えてみるとそれは意識の停止であって、迅速に他方へ向ける必要があると感じる。ただ、捻りのある話、伏線をレールの様に敷き詰めた話に、何処かで辟易していて、王道の話を意図的に選定して愉しんでいる現状をあと1年は続けようかなと思う。

 

 偶に海外映画レビューサイトを眺める。辛辣で直接的であって、尚且つ的を得ている意見を見ると好感が持てる。少しの時間(1日の0.007%)でも日本語から離れてみて、再度日本語で書かれている評論などに目を通すと日本語の美しさを再認識する。けれど、その後洋画を観ると、幾度とみられる、あの下劣な台詞が登場して、幾度となく脳内で反芻されているから、日本語への興味は、またすぐに薄れる。