読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

深緑のネオンサイン。

観念に囚われない生き方は理想であるし、巡り巡る時代錯誤感も嫌いになれないし、スマートフォンの利便性も認めざるを得ない。煩いから通知は全て切っているけど、いざという時には頼りになる機器である。雖も、手放したいものリストの最上層に君臨していて、充電しない日も多々あり、外出先で文鎮と化したスマートフォンを眺めながら、遠方を見つめ、コーヒーを飲む機会もよくある。それでも、予備のバッテリーを買おうかと思案したことは1度もない。

 

公衆電話の外装が好みで、写真映えするなと何時も感心させられる。真夜中の公衆電話内を照らす灯りは幻想的で、外景とのコントラストが堪らなく良い。付随する小道具的なものが電話の足許にあると、更に異質性を増す。将来的な消失が不安であるけれど、時代錯誤感は言うまでもない。けれど、上記の通りスマートフォンの電源が切れることが偶にあって、必要に応じて利用するから、常にテレフォンカードを持ち歩いている。北澤とかラモスがいた頃の東京ヴェルディのカードはお気に入りだ。如何して過去に作られたものが、これほど哀愁を誘うのか常日頃の疑問でもある。特に僕が生まれる前の80年代後半であったり、90年代初頭だったりと。

 

普段の散歩道を完全に無垢な状態で歩いてみる。ipodから音楽を流さずに、闊歩し、環境音に触れる。鳥の囀りであったりとか、自動車の走行音であっただとか、意外とそれは新鮮なもので、普段自ずと排除していることは少しばかり虚しく思えた。歩きながら音楽を聴く行為自体、最小限度の危険は常に伴う。引き換えにその場限りで、自分だけの狭窄したテリトリーを形成できるが、果たして有意義なものなのかと問うと、そうとは言えない。寝る前に聴くJanis Joplinは叙情感があって好きだし、起床後に聴くT.Rexはその日の活力をくれる気がする。そういった「正しい」と思われる聴き方をすべきなのだろう。

 

物事を純粋な視線で捉えることは年齢を重ねるに連れ、困難なものになっていくが、常に対応策を見つけている。濁りや淀みを出来る限り排除し、歪みを修正しようと逡巡する。その過程を通り、幼少期の頃に抱いた感心であったりとかを再現し、純朴な気概を持っていたあの頃に近づく様に験したい。

 

 

遊歩道の雨景色。

久方ぶりに、午前中AMラジオを付けた。ラジオから流れてくる曲は、時代錯誤も甚だしく、70年代、80年代の邦楽が大半だった。地方のAMラジオの特権とも云えるが、独自の選曲で、流行りのJpopなどを無闇矢鱈に流さない姿勢は好感が持てる。近所のレンタルビデオ店は、恐らく最新のチャートと思われる曲が立て続けに垂れ流されていて、嫌悪感しかない。出来るだけ速やかに、目ぼしい映画を選別することに長けてきた気がする。

 

今更の話だが 昨年、最も活用した電子機器は電子辞書だった。昨年の初春から海外のインディーズゲームに手を出し始めたことにより、以前より利用する機会が増えた。各単語から文章は大体理解できるが、英語圏の言い回しなどは、無知に近い状態だったので、非常に物語の理解に大いに役立っている。だが、昨年末にクリアしたとある「ビジュアルノベルゲーム」は流行りの言い回し表現と思われるフレーズが多数見受けられて、クリアには酷く時間がかかったし、完全に理解は出来ていなかったと思う。クリア後の現在も物語の上辺しか攫いきれてない気がする。それでも、主題は恐らく汲み取れた。

 

帰する所、現在プレイ中である『The Silent Age』を始めとする、海外のナラティブ(Narrative)系ゲームをプレイするのが望ましいのだろう。語彙理解は最小限の情報で、プレーヤー各々の解釈を持ち、ストーリーに没入させる型式である。近年の日本製ゲームで云うと『ICO』や『ワンダと巨像』そして『rain』等が挙げられる。

 

昨年の初夏に一晩でクリアした『rain』は、同時期に『言の葉の庭』を数回視聴したこともあって、「雨」の魅力を更に助長させる作品だった。「少年」と「少女」のチャプター毎に縮める距離感が、水面に広がる一滴一滴の波紋が、唯々麗しく、ラストの描写は掛け値なく良かった。形容し難い、心理的感情を受け、人生の最後の日にもう一度だけ、感傷に浸りたい。

 

f:id:toyukawapanda0401:20161224204923j:plain