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言葉とプレーヤー。

 度々、自分の名前を忘れる。自らの名前に執着がなくて、微塵の思入れさえも持ち備えていない故に。幼少期から、多くの場合に一親等ないしは二親等から名付けられるシステムは釈然としなかった憶えがある。そして、その考えは現在も変わっていない。

 

 実生活がそうならば、創作物の命名など、更に関心は薄まる。新たなゲームを始める際に、ゲーム内での分身(プレーヤー)と自己を投影しないから、別に名前は「ねこ」とか「とり」とかで良くて、言葉のリズムが余程可笑しくなかったらどうでもいいと思っている。プレーヤー名を決める画面が表れると潜在的に、脳内の何処かの意識が弛緩し、ゲームをプレイしている自分が、ゲーム内での名前を選名していると俯瞰的に見てしまう。だから、プレーヤー名など初期設定から無く、背景美術等の麗しさに感嘆し、側面から核へとなぞる様にストーリーを展開し、無意識的に世界観へ浸っているゲームを好んでいる気がする。ナラティブ系のゲームも『IN』と『OUT』の変換が重要だと最近になって気付いたのだけれども。

 

 

 年を重ねるに連れて、単純明快の話を好むようになった。だが、言い換えてみるとそれは意識の停止であって、迅速に他方へ向ける必要があると感じる。ただ、捻りのある話、伏線をレールの様に敷き詰めた話に、何処かで辟易していて、王道の話を意図的に選定して愉しんでいる現状をあと1年は続けようかなと思う。

 

 偶に海外映画レビューサイトを眺める。辛辣で直接的であって、尚且つ的を得ている意見を見ると好感が持てる。少しの時間(1日の0.007%)でも日本語から離れてみて、再度日本語で書かれている評論などに目を通すと日本語の美しさを再認識する。けれど、その後洋画を観ると、幾度とみられる、あの下劣な台詞が登場して、幾度となく脳内で反芻されているから、日本語への興味は、またすぐに薄れる。

 

 

 

深緑のネオンサイン。

観念に囚われない生き方は理想であるし、巡り巡る時代錯誤感も嫌いになれないし、スマートフォンの利便性も認めざるを得ない。煩いから通知は全て切っているけど、いざという時には頼りになる機器である。雖も、手放したいものリストの最上層に君臨していて、充電しない日も多々あり、外出先で文鎮と化したスマートフォンを眺めながら、遠方を見つめ、コーヒーを飲む機会もよくある。それでも、予備のバッテリーを買おうかと思案したことは1度もない。

 

公衆電話の外装が好みで、写真映えするなと何時も感心させられる。真夜中の公衆電話内を照らす灯りは幻想的で、外景とのコントラストが堪らなく良い。付随する小道具的なものが電話の足許にあると、更に異質性を増す。将来的な消失が不安であるけれど、時代錯誤感は言うまでもない。けれど、上記の通りスマートフォンの電源が切れることが偶にあって、必要に応じて利用するから、常にテレフォンカードを持ち歩いている。北澤とかラモスがいた頃の東京ヴェルディのカードはお気に入りだ。如何して過去に作られたものが、これほど哀愁を誘うのか常日頃の疑問でもある。特に僕が生まれる前の80年代後半であったり、90年代初頭だったりと。

 

普段の散歩道を完全に無垢な状態で歩いてみる。ipodから音楽を流さずに、闊歩し、環境音に触れる。鳥の囀りであったりとか、自動車の走行音であっただとか、意外とそれは新鮮なもので、普段自ずと排除していることは少しばかり虚しく思えた。歩きながら音楽を聴く行為自体、最小限度の危険は常に伴う。引き換えにその場限りで、自分だけの狭窄したテリトリーを形成できるが、果たして有意義なものなのかと問うと、そうとは言えない。寝る前に聴くJanis Joplinは叙情感があって好きだし、起床後に聴くT.Rexはその日の活力をくれる気がする。そういった「正しい」と思われる聴き方をすべきなのだろう。

 

物事を純粋な視線で捉えることは年齢を重ねるに連れ、困難なものになっていくが、常に対応策を見つけている。濁りや淀みを出来る限り排除し、歪みを修正しようと逡巡する。その過程を通り、幼少期の頃に抱いた感心であったりとかを再現し、純朴な気概を持っていたあの頃に近づく様に験したい。