言葉とプレーヤー。

 度々、自分の名前を忘れる。自らの名前に執着がなくて、微塵の思入れさえも持ち備えていない故に。幼少期から、多くの場合に一親等ないしは二親等から名付けられるシステムは釈然としなかった憶えがある。そして、その考えは現在も変わっていない。

 

 実生活がそうならば、創作物の命名など、更に関心は薄まる。新たなゲームを始める際に、ゲーム内での分身(プレーヤー)と自己を投影しないから、別に名前は「ねこ」とか「とり」とかで良くて、言葉のリズムが余程可笑しくなかったらどうでもいいと思っている。プレーヤー名を決める画面が表れると潜在的に、脳内の何処かの意識が弛緩し、ゲームをプレイしている自分が、ゲーム内での名前を選名していると俯瞰的に見てしまう。だから、プレーヤー名など初期設定から無く、背景美術等の麗しさに感嘆し、側面から核へとなぞる様にストーリーを展開し、無意識的に世界観へ浸っているゲームを好んでいる気がする。ナラティブ系のゲームも『IN』と『OUT』の変換が重要だと最近になって気付いたのだけれども。

 

 

 年を重ねるに連れて、単純明快の話を好むようになった。だが、言い換えてみるとそれは意識の停止であって、迅速に他方へ向ける必要があると感じる。ただ、捻りのある話、伏線をレールの様に敷き詰めた話に、何処かで辟易していて、王道の話を意図的に選定して愉しんでいる現状をあと1年は続けようかなと思う。

 

 偶に海外映画レビューサイトを眺める。辛辣で直接的であって、尚且つ的を得ている意見を見ると好感が持てる。少しの時間(1日の0.007%)でも日本語から離れてみて、再度日本語で書かれている評論などに目を通すと日本語の美しさを再認識する。けれど、その後洋画を観ると、幾度とみられる、あの下劣な台詞が登場して、幾度となく脳内で反芻されているから、日本語への興味は、またすぐに薄れる。